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祖母の形なき形見 [雑感]

先日お嬢に子ども用の辞書を買ったら、付録に百人一首のポスターがついていた。懐かしい感じがしてお嬢にいくつか読んであげたら喜んでくれたので、次々に読んだ。百人一首は棒読みでは風情が無い。五七五七七で抑揚をつけて唄うように読む方がしっくりくるなぁと思って読んでいると…ふと気づくと私の頭の中には昔祖母が読んでくれた百人一首の声が聞こえてきた。そうだ、お正月冬休みに祖母とよく百人一首やったっけ!祖母がいつも札を読んでくれたんだった。

百人一首をやったのはきっと私が小学生か中学生くらいの頃だったろう。今から30年以上も昔の話だ。祖母が亡くなったのは7年前。こんな風に祖母の声が30年以上もたってから突然よみがえってくるなんて思ってもみなかった。不思議さと懐かしさの気持ちで一杯になり、祖母にもう一度だけ会えたらどんなにいいだろうと思った。と同時に他にも祖母と過ごした時間や妊娠中で祖母のお葬式に出られなかったことを思い出して、少し涙が溢れてきた。

私の母方の祖母は、母が幼少の時に亡くなったので、私にとっての祖母と言えば事実上父方の祖母のみである。祖父達よりも長生きしてくれたので、同居していたわけではないが、一緒に過ごした記憶は結構ある。特に祖母が転んで肩の怪我をした時には、父が祖母を家に引き取ってしばらく面倒を見た(実際には母が世話をした)ので、一緒に過ごした時間が結構あった。祖母は家事もせず暇だったのだろう、祖母の家に遊びに行った時よりも私の相手をしてくれた。百人一首を読んでくれたのもきっとその時だったのだろうと思う。詩吟や大正琴を習っていた祖母は朗々と読み上げてくれた。

話は飛ぶが、父方の祖父は私が幼稚園の時に亡くなった。だから記憶はほとんどないけれど、優しくて膝に乗せてもらったこと、字が上手で筆でお手玉に名前を書いてくれたこととその文字の形はよく覚えている。もうそのお手玉もどこかへ行ってしまったけれど、あれがお爺ちゃんの形見で、色や形や手触りは私の頭の中に焼き付いている。母方の祖父は私が高1の時に亡くなった。いつもニコニコしてたけれどくしゃみが大きいお爺ちゃんは時折年に数日間泊まりに来るくらいだったし、口数も少なかったし、晩年は歯が無くなって発声が聞き取れなかったので、なにか一緒にした記憶はほとんどない。でも小学校入学祝いに買ってくれた赤い自動鉛筆削りは大事に使って、今はお嬢が使っている大切な置き土産だ。あとは亡くなった後に形見分けでドイツ語辞書をもらっている。

祖母はというと、そういえば形見らしきモノは無い。それでも一緒に過ごした記憶はたくさんあったし、日々の生活に追われて忙しく過ごしていたので特に気にはならなかった。それがお嬢のおかげで、形はないけれど形見と呼べるようなものを祖母が私に残してくれていたことに気がついた。百人一首の唄とはなんとも素敵な贈り物だ。きっとこれからはどこでも百人一首を見るたびに祖母のことを思い出せるはずだ。

そして祖母が私に残してくれたように、私の母にもお嬢や坊やに物でない何かを残して欲しいと思う。モノより思い出、というCMが随分前にあったけれど、本当にまさしくそう思う。物はいつか無くなってしまうけれど、思い出や記憶はいったん忘れてもふと何かの拍子で鮮やかによみがえる。それはある意味、形見よりもずっと生々しく強烈であり、感動的ですらある。

おばあちゃん、素敵なすばらしいプレゼントをくれてたんだね。ありがとう。私はそのプレゼントをお嬢や坊や、そして将来その子ども達にあげられるといいな。
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スマホに変えたら [雑感]

最近このブログ更新が滞りがちなのは、ケータイをAndroidスマホに変えたからである。私はこれまでブログの多くは空き時間に携帯で入力してメール投稿して作成していた。携帯での文章入力もお世辞にも楽とはいえずこれまで膨大な時間を使っていたけれど、スマホは輪をかけて入力しにくいというのが理由の一つ。スマホのソフトキーボードは携帯のテンキー入力よりキーを押す回数が少ない分楽だけど、なにしろミスタッチが多すぎる。キーボードが小さすぎるので隣のキーをかなりの確率で押してしまうのである。メールすらろくに書けずイライラしていたけれど、夫が画面を90°回転させればキーが大きくなってミスタッチしにくいのではと提案。試しにやってみると確かに入力しやすくなった。

もう一つの理由は、メールソフトの使いにくさ。携帯メールはエディタのように使えたのに、SPモードメールもgmailも非常に使いにくい。作成途中で送信してしまったり、うっかり削除してしまったり。そこでエディタ・アプリを色々探してようやくAKノートパッドというアプリを発見。まだ使い始めたばかりだけどイイ感じで現在もサクサク入力中!

スマホに変えてに一番変わったのは、万歩計見たさによく歩いて健康的になったこと!ガラケーでも可能ではあったけれどバス接近情報や乗り換え案内も見やすくなった。gmailやカレンダーはPCと連携できて便利。電車の中で新聞も読めるし、ウェブ検索できるのもいいな。地図も便利だし、カメラもいい。画面が大きいのでメモがわりになるし、スマホは持参し忘れることがないのですっかりデジカメを持ち歩かなくなってしまった。電池の持ちもそれほど悪くないし、todoアプリも地味ながら便利だ。唯一の難点は枕の下に入れて目覚ましがわりに使うと画面が割れそうなこと。でもそれはSIMカードを抜いた古いガラケーでできることがわかったので問題無し。おサイフケータイでモバイルスイカとかもやれるらしいけれども、まだやる気にならず。

ただし現在スマホにしたとはいえ、ケチな私はWifiオンリーの3G0パケット派。常にwimaxルーターを持ち歩いている。wimaxが届かない地方や地下鉄、ビルの中では厳しいものの、首都圏のJRだったら問題なし。私の場合は通勤途中どこでもつながる。出張中のみ我慢すればいいのである。普段は快適にWifi経由でネット使い放題!月々1000円+wimax3800円程度でスマホが使えている。wimaxはノートPCを電車内で仕事にプライベートにとネット接続するのにも使うので必要経費で、もともと払っていたもの。携帯のテザリングもちょっと考えたけれども電池の持ちも悪くなるし、上限もあるようだったのであまり検討せず。

スマホは月々の維持費も高いけれど、初期費用が高いのもこれまでなかなか手が出なかった理由のひとつ。今回の機種は最新ではないのもあり、また家族割とたまったポイントを使い、なんと初期費用は夫の同機種スマホと合わせて500円程度。MNP割を使わなくても探せばあるものだ(夫が探してきてくれた)。私は数は多くないけれど地方出張はとびきり辺鄙な場所であることが多いので、携帯電話のカバーエリアの広いドコモが必須。MNPは最初から考えなかった。

まあSPモードメールが認証できないので受信できなくなったとかマイナーな問題はあったりしたけれど(3Gに一瞬つなげば解決)、PCでも使えるメイン使用のgmailがプッシュ受信できるようになったので関係無し。おおむね満足してスマホを使っている。これで今後はブログ更新頻度もマシになるはず!
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さまざまなる同級生 [雑感]

ひょんなことから駅でばったり十年ぶりくらいに会った中高の同級生のお宅を訪問をし、ランチをご馳走になった。お友達は今や3人の子持ちで今は家で料理を教えたり近くのカフェのお菓子作りの監修をしているそう。素敵なテラスのアプローチには薪が山積み。玄関入ってすぐの居間はログハウス風のレストランさながら。さりげないドライフラワーや容器のディスプレイにうっとり…。用意してくれた料理も、さすがプロなのでとても美味しいデザートまで作ってくれて、下手なレストランなどと比べ物にならない。

お互いの近況報告しあった後は懐かしい同級生や先生達の情報交換におしゃべりの花が咲く。既に複数子どもがいる人もいれば、出産前や直後の人もいて、皆さんイロイロ。仕事をバリバリしてる人もいれば、専業主婦もあり。雑誌に登場している人がいる一方で既に何人か亡くなっているのは残念だけれど、皆様々な環境でしなやかにたくましく本物志向で暮らしている印象を受けた。本当に25年くらい前には同じ教室で毎日過ごしていたのが不思議なくらい千差万別。

せっかく縁あって知り合ったのだから、今後も細々とでも仲良く交流できたら楽しいだろうなぁー
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客寄せペンギンとスタンプラリー [雑感]

先日ペンギン脱走と捕獲で話題になった葛西臨海公園に行った。まずは野外でピクニック。そして自転車でサイクリング。坊やもすっかり自転車を上手に漕げるようになったので、子ども達は勝手に進んでくれるようになり、親はらくらく。そのうちもっと速く走れるようになれば、親の自転車も必要になるはずだ。

自転車で海の近くまで行ってみると、なぎさで大勢の家族が水遊びしていた。そこでパパが率先して靴と靴下を脱いで水に足を入れた。最初は躊躇した子ども達もすぐに慣れて波打際に入ったり、泥遊びを始めた。潮干狩りしたがっていたお嬢も普段砂遊びの大好きな坊やも大喜び。しばらく浜辺で泥んこずぶ濡れになって遊んだ。ママは荷物持ちで水には入らなかったけれど、海に向かって流れる湧き水やさざ波の跡、アサリを見つけたり、鴨のダイビングなどが見れて楽しかった。

少し風が強くなってきた頃、着替えるために自転車で駐車場まで戻った。もうクタクタかと思いきや、着替えたら今度は水族館に行きたいという。坊やにはちゃんと帰りも自転車を漕ぐと約束させて水族館へ向かった。中はとても全部見る余裕はなくサメやマグロを見た後はペンギンに直行した。

ペンギンは可愛かったけれど、脱走ペンギンに思いを馳せると、生命のたくましさに感動するなあと思った。脱走ペンギンはまだ幼鳥だったのに80日もの間海で自力で餌を取って暮らしていたらしい。おかげで体格も栄養状態も良く、胸筋がものすごく発達していたとのこと。かわいい顔してヨチヨチ歩いているけど、やる気になれば野生の顔になるのだなあと思い、夫に脱走ペンギンはたくましい、すごいね言ったら、人間も小さいうちに厳しい環境を経験させた方が自立するのだと言っていた。

さらにウニやカニに触ったりして帰ろうとしたけれど、いちいちお嬢が魚を見たがってなかなか出口にたどり着かなかった。ようやく建物出口を出たと思ったら、スタンプラリーの最後のスタンプは遠回りしないといけないところだった。実は葛西臨海公園の水族館は子ども達が生まれる前も含め何度も行ったことがあったけれど、この遠回りコースには行ったことがなかった。

遠回りコースは広い芝生の広場を緩やかにカーブする細い道を通るようになっており、所々にクイズのパネルがあった。坊やが走っていってしまう一方、お嬢はいちいち立ち止まってクイズにチャレンジしていた。田んぼやら蛙やらのクイズだったので、なんで臨海なのに田んぼ?と不思議だった。

そしていざ小さな建物に入ってみるとそこには一面の池の断面があり、息を呑んだ。池はもともとあったものか、後から造ったものかはわからないけれどいずれにせよ、屋外にあるので本物の生態系の断面をかいま見ることができる。以前北海道で鮭のいる河を窓から見れる展示を見たことはあったし、海中水族館を見たことはあったけれど、池は見たことがない。池なので派手さはないし、もちろん透明度は高くないけれど、小さな魚がたくさん泳いでいるのが見えた。池の中ってこういう感じなんだと初めて知った。

隣の建物に入ると今度は滝のある渓流の断面が見えるようになっていた。時間がなくてゆっくり見れなかったけれど、こちらも素晴らしい展示だった。田んぼの展示ではザリガニやドジョウなどの生き物も見れて、夫がしきりに懐かしいと言っていた。ゆっくり見たがるお嬢をせかして、ようやく建物の出口で最後のスタンプを押し、無事終了時間ぎりぎりに子ども達はスタンプラリープレゼントの折り紙やシールをゲットできた。

それにしても何故臨海水族館に淡水生態系の展示、と改めて考えたけれど、今や臨海地域は工場地帯や高層マンション群になってしまったけれど、かつて昔は東京湾の近くまで湿地や草地が広がっていたのかもしれない。そこには池や田んぼもあって夫が懐かしがった蛙やザリガニがいたのかもしれない。今までそんな風景を想像したこともなかったので、まるでタイムスリップしたかのような気分になった。昔からあった自然、開発の歴史、環境保全…。色々と考えさせられる展示でとても印象的だった。

本来は遠い国から連れてきたペンギンをペットのように飼って見世物にするよりも、もともと東京湾岸にあった生態系を再現する方がずっと価値があり貴重なことではないかと思うけれど、きっと淡水池の展示だけでは金も人も集まらないだろう。現に私達だってペンギンを見に行った訳で、蛙やドジョウをわざわざ見には行かない(ドジョウは家で飼っているし!)。そういう意味では"客寄せペンギン"もやはり必要であり、さらにスタンプラリーで辺鄙な場所に誘導するテクニックも必要なのだろう。まんまとその戦略(?)にひっかかった訳だけれど、臨海水族館のこれまでと違う一面を知れて面白かったし、興味の幅が広がったので、また行きたいと思う。

今回は海といい、水族館といい、京葉線でお隣りの駅にある人工島レジャーランドに比べてなんと奥深い楽しみがあることだろう、とつくづく思った。体もたっぷり動かせたし、初夏の季節も味わえたし、知的好奇心も満たされて、大変充実した1日を過ごせた。子ども達も疲れたようだったけれど、お隣りのレジャーランドのように待ち行列に並んでばかりで心身ともにクタクタで歩けないという疲れとは違う。今回は坊やですら最後までちゃんと自転車を漕いでいた。お隣りの会社は商売が上手なので日本全国からお客さんがたくさん来るようだけれど、私は断然都内側の方が健全でリーズナブルで楽しいと思う。
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もうすぐ一年 [雑感]

「あの日」の記事には阪神大震災のことを書いたけれど、やはり私にとっての「あの日」はなんと言っても3.11の地震だ。「あの日」からもうすぐ一年経つ…。まだまだ困難な状況の方はたくさんいらっしゃるので、過去の出来事として語るなんておこがましいけれど、記憶を風化させたくないので、私にとっての「あの日」を思い出して書いておく。

あれは金曜日だった。ちょっと遅めの昼食の後、私は職場の実験室で分析作業をしていた。普段実験室では私以外の誰かしら作業をしていることが多いけれど、その時はたまたま私しかいなかった。そして立ってサンプルを交換中、ふと窓のブラインドの辺りのガシャガシャという音に気づいた。最初はうるさいなーと思っただけで作業を続けたけれどずっと音は鳴りやまない。何で音がするんだろう?としばらく考えて「あ、地震!」とようやく気づいた。

実験室には劇薬もガラスもたくさんあり、普通のオフィスよりも遥かに危険である。しかも実験室のある建屋はちょっとした風雨で壁から雨漏りするようなシロモノ。耐震性が高いとは思えなかったので身の危険を感じた私は一目散に出口を目指した。周りに誰もいなかったので、何もかも自分で判断しなければならない。自分の身を守れるのは自分だけだったのが恐怖に輪をかけた。幸い実験室は1階にあり、建物の出口もすぐ側にあったのでそこまで行った。

建物のドアの目の前には避難訓練でいつも集合場所となる広場があるけれど、まだまだ揺れ続けていたので当然ながら誰もいない。そこに飛び出す方がいいのか、それとも建物の中にいた方がいいのか判断できなかったのでドアを開けたままドア付近で様子を見た。揺れは今まで体験してきた中で一番大きく、しかも異常に長かった。古い建物は崩れるのではと本気で心配したくらいだ。でも後から考えたら私はドアにつかまってはいたもののずっと立っていた。だから震度としては大したことはなかったのだろう(多分震度5弱くらい)。何しろ後で点検したら机の上のビーカー一つ割れていなかった。ただ予想通り?その建物のドア付近の壁にはひびが入ったようで、つい最近修繕されていた。

異常に長かった揺れが少しおさまってきたので、居室の方に向かって歩いた。誰かとこの異常な地震について話したかった。すぐに同僚が見えたので少しホッとして話をしたらまた何度もガタガタ揺れた。それでも知り合いと一緒だったので最初の揺れの時ほどの恐怖はなかった。少し気持ちが落ち着いたら保育園にいる子ども達と夫が無事かどうか気になり夫に電話してみたけれど、繋がらなかった。ふと急に腹痛を感じたけれど、あまりのストレスに体が反応したようだった。案の定そのうち治ってしまった。

何度も揺れ続けたのでそのまま外で様子を見ていたけれど、震源がどこなのか気になったし、寒くなってきたのでダウンジャケットを取りに階段を上がって居室に戻った。部屋に入って自分の机を見たら息を呑んでしまった。PCのディスプレイは2つとも椅子に向かってバッタリと倒れ、戸棚の上の本は本棚ごと床に転落。重い辞典から軽いファイルまでバサバサと散乱。10階にある居室はどうやら相当揺れたらしい。今後のために地震直後の居室の様子を写真に収めておいた。しかし、1階にあったから揺れの比較的少なかった実験室で1人で地震に遭遇するのと、10階で大揺れだけど周りに同僚がいたのとどっちが良かっただろう。ふと右手に測定用サンプルをずっと持ちっばなしだったことにようやく気づいて笑ってしまった。

とりあえずディスプレイを起こしてみるとパソコンや電気は無事だったようで、つけっぱなしだったパソコンはすぐ使えた。とりあえず夫に携帯からメールしてみたら、一応送られたようだったけれどしばらく返信はなかった。ネットワークも無事だったのでパソコンで情報収集できたのはありがたかった。震源はどうやら最近地震のあった仙台沖らしいことがわかったけれど、その後も何度か激しく揺れたし、小さい地震は無数にあったので落ち着かなかった。

少し地震が減ってきた頃、避難階段で再度下に降りた。実験室にサンプルを戻して装置を片付けた後は寒い中しばらく外にいたら、携帯が鳴った。実家の母からだった。とりあえず母は無事とわかり一安心だった。その後は色々な情報を集めていたら、震源が仙台沖だったり茨城沖だったり新潟だったりとあちこち散らばっているのが、経験上無かったので東日本全滅かとゾッとしたのを覚えている。地震から1時間以上経ってからようやく夫からメールが来た。既に保育園にお迎えに行って家に戻ったというので安心した。JRは全線ストップでお迎えに行けないと思っていたので有り難かった。

だんだん大きな揺れは少なくなったし、寒くなったし、下にいても集合するような気配もないので、再度階段を上がって居室に戻った。締め切りを抱えている人もいたので仕事をそのまま続ける人もいたけれど、車通勤の人が多いので居室にいる人は次々と減っていった。JRは運休していたので私は会社に泊まる覚悟をして、ネットでずっと地震情報を見ていた。電気と飲料水とトイレがあるのは良かったけれど、たまに結構揺れるのでトイレに行くタイミングは難しかった。

その後夫とは電話ができるようになり、お互いの状態を確認できたけれど、携帯の電池がなくなりそうだったのは痛かった。代わりに会社のPHSと充電器が役に立った。ネットのニュースでは津波の映像を繰り返し流していたけれど、この世のものとは思えないほど恐ろしかったのを覚えている。そうこうしているうちに、職場関連の宿泊施設に泊まれるよう、面倒見の良い先輩が手配してくれた。確かにベッドもあるのでそちらの方が良いということで、親切な車通勤の後輩にコンビニ経由で近くまで送ってもらった。幹線道路は大渋滞だったけれど、生活道路はガラガラだったのが印象的だった。

宿泊施設は快適だったけれど、暖房を最強にしても寒かったのでダウンジャケットを着て毛布にくるまっていた。ネットは無かったので、夜中じゅうずっとテレビのニュースをつけっぱなしにしていた。しょっちゅう緊急地震情報がテレビや携帯から鳴り、そのたびに身構えるということを繰り返して、ぐっすり眠れなかった。翌朝は7時頃には電車が動くとテレビで言っていたので、7時半頃に最寄駅に歩いて行った。道中会った見知らぬ人に道を聞かれたけれど、その人は夜通し歩いてきたと言っていた。私は寒かったけどベッドで寝れただけマシだったなあと思った。

駅は電車を待つ人でごった返していた。予定の時間は大幅に過ぎているのに電車が来る気配はない。暇だったので念のため電源を切っておいた携帯をつけたら、なんとこの非常時というのに、あらかじめ予定していた保育園の卒園行事を時間通りやります、とのメールが入っていた。未曾有の大震災で多くの人が亡くなったり、行方不明になったり、原発が大変な状態なのになんと非常識な…と唖然としたけれど、特に欠席する理由も無いし、クラスで一人だけ欠席だったら後でかわいそうなので、仕方ない。慌てて夫に連絡して子ども達を保育園に連れて行ってもらった。

私の方はしばらくは改札付近にいたけれど、もうすぐ電車が来るという放送があったのでホームに降りた。だけど一向に電車は来ない。被災地の方ほどではないにしろ、寒さが本当に身にこたえた。駅に来てから2時間以上経ってようやく来た電車は既に満員でドアが開くと人があふれるほどだった。でも保育園の行事に行かねば、と思い人の間に割って入った。中では身動きが取れず、メール一つ書くのもやっとだった。地震後最初の電車だったらしく、安全確認と言っては止まったり徐行したりを繰り返し、ようやく10時半過ぎに目的駅に到着し、保育園には11時頃到着した。

非常事態をなんとか脱して保育園にたどり着いてみると、普通に行事が行われていて保護者も大勢来ていたので逆にびっくりした。会社から直行でミネラルウォーターや非常食をコンビニ袋に入れて持っているのは私だけ?状態。非常識なのは私の方だったのか?特に卒園児の親御さんは皆さんスーツなど着ていらっしゃったので、自分の子どもが卒園のタイミングじゃなくて良かったと思った。で、肝心のお嬢の出番には間に合わずじまい。まああれ以上早く来るのは不可能だったので仕方ない。

この卒園行事は単なるセレモニーだけではなく、運動会に次ぐ子ども達の劇の練習の成果発表の機会でもあったので、保育園の先生も苦渋の判断だっただろうし、翌週以降は原発事故が深刻化して停電やら商品不足やら放射能騒ぎやらで保育園も大混乱したので、行事どころではなかっただろうから、結果的にはあのタイミングで行事決行で良かったのだろう。だけど遠く離れた外国での大震災ならいざ知らず、仮にも東日本大震災と命名されたあの日の翌日の混乱時に東日本内でお祝い行事というのはどうよ、というのが私の率直な感想ではある。実際翌日は、余震の恐れも大いにあったし、原発だって大変な状態だった。子ども達の安全を第一に考えたら、保育園は行事を延期すべきだったと今でも思う。

あの日の後もしばらくは、電車が運休して会社に行けなかったり、スーパーの棚から食品や水が無くなったり、ガソリンスタンドが開店休業になりガソリンが入れられなくなったり、保育園からは登園自粛や弁当持参のお願いが来たり、水道水に放射性物質が混入したりと、3月中は落ち着かない非日常的な毎日が続いた。どこに行っても節電のため照明は暗く、エスカレーターは止まっていて、暖房も弱く寒かった。携帯電話や構内放送ではしょっちゅう緊急地震情報が鳴り、そのたびに心臓がドキドキした。

私は実は地震後しばらくは地震時にいた実験室に近づけなかった。すっかりトラウマになってしまったのだ。時間が経つにつれて少しずつ実験室にいられるようになったけれど、やはりいまだに誰かほかの人が実験室にいないと不安である。特に今年も冬になってあの日のように寒い日に実験室のある建物の入り口を通ると、かつてない揺れに一人で遭遇した当時の恐怖が蘇ってくると同時に、また揺れるのではないかと身構えてしまう。何の被害もなかった私ですらトラウマなんだから、命からがら助かった方や身の回りに犠牲になった方がいるような場合はさぞかし心に痛手を負っていらっしゃるだろうと思う。

いまだに行方不明の方が何百人もいらっしゃり、震災瓦礫の処理も5%程度しかできていないし、原発も内部把握ができていないと聞く。色々な意味であまりにも大きな災害だったので、1年経つというのにまだ全体像が見えてこない。些細な寄附や仕事を通じて少しでも震災復興に役に立てたらと思う一方で、近いうちにくると言われている首都圏直下型や房総沖地震に備えてあらためて気を引き締めなければと思う。
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歌姫を私は忘れない [雑感]

Whitney Houstonが先日逝去したというニュースは私にとっては衝撃だった。中学生くらいの頃から大好きな歌手だったし、私にとっての憧れの”ザ・アメリカ”の一人でもあった。マイケルジャクソンが亡くなった時も驚いたけれど、比較にならないほどの衝撃だった。早速、彼女のデビュー初期の明るく希望に満ちた歌をYou tubeで探し、だけど晩年はとても辛く悲しい生活を送っていたというニュースを思い浮かべ、そして自分の若かりし頃のことも思い出しながら見ていたら、涙が溢れて止まらなかった。

「ホイットニー・ヒューストン、好きだったんだ」と夫に言ったら、「エンダ~~~イヤ~♪」と歌いだしたので、彼女の最大のヒット曲は映画ボディーガードの主題歌"I will always love you”なんだろうけど、私が好きなWhitneyの歌はデビュー初期の"Saving all my love for you"や"Greatest love of all"。まだ当時(1985~86年頃?)中学生だった私は”アメリカ”に憧れを持つようになり、ラジオでアメリカンポップスを聴きまくっていた。その中で聴いた、透き通るような、だけど力強い美しい歌声で歌っていたのがWhitneyだった。ゴスペルで鍛えた、演歌にも通じるような芯のある太い声で歌う彼女には、当時のアイドル全盛期の日本人歌手には無い魅力があった。

今やYou tubeで"Whitney Houston"と検索すればパッと無料でミュージック・ビデオを見ることができるけれど、当時はそんなものがあるはずもなく、映りの悪いマイナーな地方テレビ局で夜中たまにやっているMTVを探して見たりした。CDもお金が無くて買えなかったのでFMや早朝のFENのDJの声入りの曲をカセットテープに録音しては、ウォークマンで聞く程度のことしかできなかった。でも時間もあったし、とにかく大好きだったので、むしろ楽しんでそういったことをやっていたような気もする。周りの友人が日本の歌謡曲に夢中になる中、英語というだけでそれよりちょっと大人っぽいと感じていたのかもしれない。

WhitneyをはじめAmerican pops熱はしばらく冷めることはなく、その情熱を両親にも認めてもらったのか(!?)ありがたいことに高校1年の時にはアメリカに1ヶ月ホームステイさせてもらったりもした(そこでは、ホストファミリーにHeartのコンサートにも連れて行ってもらったような記憶も…)。その後ももっと長期海外留学したいと思い続けて、最終的にはフランスの研究機関に約半年滞在したりもした(結局は長期じゃないしアメリカじゃなかったけど、10年間で紆余曲折あってそうなったので後悔はまったくない)し、結婚後夫がアメリカに滞在したおかげで私も約1年ほどあの憧れだったアメリカに滞在できた。その頃にはアメリカ熱もだいぶ冷めてはいたけれど…。

ちょっと脱線したけれど、とにかく私の人生のかなり多くの部分は、”ザ・アメリカ”を皮切りに始まった外国志向で占められていたことは間違いなく(今は反動で国内志向)、そのシンボルの一人であったWhitneyが亡くなってしまったことは、私の若かりし頃の人生の希望の灯が一つ消えてしまったような感じだった。しかも、私の知っていた頃のスーパースターとして若く光輝いていたWhitneyが、結婚後子宝には恵まれたものの、その後は必ずしも幸せな人生を送っていなかったことやあの美しく力強い歌声を失っていたことを逝去後に知り、とても心が痛んだ。

それにしてももう25年も前の歌だというのに、懐かしいという感情を差し引いても古臭い感じはしないどころか、歌声の素晴らしさに再び深く感動した。なかでも特に、"Greatest love of all"はとてもアメリカらしい歌詞だし、彼女を象徴する歌でもあるので、長く歴史に残る曲となってもおかしくないと思う。そのミュージックビデオの中のWhitneyは明るく自信に満ち溢れて幸せそうに見えるのが今となってはかえって心に突き刺さるけれど、本当に素晴らしいあの歌声と歌姫を私は決して忘れることはないし、世界中の多くのファンがきっとそう思っているはず。素晴らしい歌声と感動と夢をありがとう。誰かの追悼メッセージにあったけど、つらかったこの世での生活から逃れて、天国では心安らかに美しい歌声で歌ってください。
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あの日のこと [雑感]

今、「あの日」、といえば、関東東北に住む人間ならほとんどが3.11の地震を連想するのではないかと思う。でも関西の多くの人にとっての「あの日」はやはり身近で起こった阪神大震災なのかもしれない。

阪神大震災から17年と先日報道があった。たくさんの方が犠牲になった痛ましい災害だったけれど、私の住む関東から遠かったせいもあってどこか遠い外国で起こったことのように感じてしまっているのは申し訳ないながら否めない。きっと関西の方は関東の人間とは異なる思いを持たれているだろうと思う。

それでも阪神大震災の地震が起きた時は500キロ以上遠く離れた都内の中高層マンションでも揺れを感じて目覚めるほどだった。慌ててテレビをつけたらどうやら西日本方面で大きな地震があったらしいことがわかった。最初は親族の住む四日市で震度4との情報のみだった。だけど時間が経つにつれて報告される場所が大阪方面に移動しで震度も5、6と大きくなっていった。そして7時頃には高速道路が横倒しになった映像や、死者数が報道され、その数がどんどん増えていった。地震の場所や被害状況がすぐにわからないなんて、これは大変なことが起きた、とゾッとした記憶はかなり鮮明だ。

その後も多分テレビの報道やワイドショー、新聞記事などはたくさん見た。だけど神戸の親戚も無事と聞いたし、こちらも普段の生活もあるので、喉元過ぎれば…となってしまったのは事実。東日本大震災があってから初めて阪神大震災から得た教訓について書かれた本をいくつか読んで、揺れの凄さや避難生活の大変さを改めて知った。

私達がテレビ映像で見た被災地の下では、テレビ中継用ヘリコプターの音がうるさくて救助の妨げになっていたなんて思いもしなかったし、被害の甚大な地域は限定的だったため、すぐ近くでこれまで通り生活している人を見て被災者が辛い思いをしていたことなど、知らなかった。そういう意味では東日本大震災のおかげで阪神大震災も少し身近になったかもしれない。

昨年夏休みには淡路島に行ったので断層記念館にも立ち寄り、子ども達と一緒に震度7も体験してきたし、断層の上に建っていた家も見学した。地震の恐ろしさ、災害の辛さ大変さは、なかなか当事者ほどの理解はできないけれど、近いうちに首都圏にも必ず大震災が来ると言われているので、先人達の体験に学んで被害を最小限にできたらと思う。
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